望月宿から和田宿
行程一覧
宿場六十九次
  • (日本橋)
  • 板 橋
  • 蕨
  • 浦 和
  • 大 宮
  • 上 尾
  • 桶 川
  • 鴻 巣
  • 熊 谷
  • 深 谷
  • 本 庄
  • 新 町
  • 倉賀野
  • 高 崎
  • 板 鼻
  • 安 中
  • 松井田
  • 坂 本
  • 軽井沢
  • 沓 掛
  • 追 分
  • 小田井
  • 岩村田
  • 塩名田
  • 八 幡
  • 望 月
  • 芦 田
  • 長久保
  • 和 田
  • (和田峠)
  • 下諏訪
  • 塩 尻
  • 洗 馬
  • 本 山
  • 贄 川
  • 奈良井
  • 藪 原
  • 宮ノ越
  • 福 島
  • 上 松
  • 須 原
  • 野 尻
  • 三留野
  • 妻 籠
  • 馬 籠
  • 落 合
  • 中津川
  • 大 井
  • 大 湫
  • 細久手
  • 御 嵩
  • 伏 見
和田宿
和田峠
和田宿2
上田城
和田宿
前の宿場
和田宿
①【国道142号沿いにある石碑】
②【青原交差点】 PM 12:28
 水明の里碑から右に入ります。
【中山道と和田宿】
この道は、江戸時代の中山道である。和田宿は慶長7年(1602)中山道の設定により開設された。 下諏訪宿まで和田峠越えの5里余(約20km)の道筋は、慶長19年(1614)ごろ完成したといわれている。 名称は、はじめ「中仙道」であったが、東山道のうちの中筋の道ということで、享保元年(1716)に「中山道」と改められた。
 中山道は江戸の板橋宿から近江の守山宿まで67宿であるが、京都までの69宿、132里10町(約520km)をいう場合もある。 1日7里(28km)とすれば、17日の行程である。木曽路を通るので「木曽街道」とも呼ばれた。信濃には26宿があった。
 和田宿は、江戸板橋宿から28番目の宿場である。 宿成立以前から人家のあった中町・下町を中心に、上町が、さらに周辺の雨原・細尾・鍛冶足・久保などから人を集めて宿を構成し、さらに正徳3年(1713)には下町に続く追川越えの橋場・新田を宿場に組み入れている。
 宿場は、幕府の公用旅行者の継ぎ立て業務を取り扱う所であったが、参勤交代で中山道を通行する34家の大名や、一般旅行者が休泊する場所でもあった。  天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると宿の長さ7町58間(約870m)、人数522人、家数126軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠屋28、(大12、中4、小12)となっている。 問屋、本陣、脇本陣、木問屋等は仲町付近に集中し、それらを中心に上町や下町までの旅籠屋や伝馬役、歩行役を勤める家、茶店、商家などが並んでいた。それらの多くの家が農業を兼ねていた。
 和田宿は下諏訪宿まで中山道随一の長丁場であるうえ、上り2里半、下り2里半という和田峠の難所をひかえ、継ぎ立てにあたる伝馬約、歩行役の苦労は並大抵ではなかった。 天保2年(1861)11月の和宮通行の際は、4日間に延8万人が通っている。その後も幕末まで大通行がしばしばあった。
 50人・50匹の宿常備の伝馬でまかないきれない分は、元禄7年(1694)に定められた助郷制によって、近隣の村から動員された。幕末はとくに出勤回数が多く助郷村の負担は大変なものであった。
③【上深山口バス停】 PM12:34 和田宿にはユニークなバス停が多いよ。
④【三千僧接待碑】 PM12:41
信定寺別院慈眼ないに建立されていたものだが、寛政7年(1795)この地にうつされた。諸国遍歴の僧侶への接待碑で一千人の僧侶への供養接待を発願して見事結願し、一躍二千を増した三千の僧侶への供養接待を発願したと碑文に刻まれている。
 碑を見れば誰の目にもわかるように一千僧の一の字を三千僧の三の字に改めた後が歴然としている。 当時の三千という僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄いきれないところから麦飯、麺類、粟飯、ひえ飯等雑穀にても賄っていたと言われる。
⑤【不動明王など】 PM12:44
PM12:44  
⑥【馬頭観世音】PM12:49
⑦【若宮八幡神社】  PM12:51
祭神は、仁徳天皇。
⑦【和田城主大井信定父子の首塚】 PM12:52
元禄六年(1693)に若宮八幡神社境内に墓碑を建立。
⑧【芹沢一里塚】 江戸より49里(約196km)
⑨【芹沢バス停】 PM12:56
  PM01:00
⑩【是より和田宿の碑】 PM01:05
⑪【和田学校前バス停】 PM01:08
⑫【八幡神社】 PM01:15 かつて和田城主大井氏の居館の鬼門除けに作られてたとの伝承がある。
⑬【河内屋(歴史の道資料館)】 PM 01:24
⑭PM 01:26
⑮【本陣】 PM 01:29
 和田宿本陣は和宮降嫁の年である文久元年(1861)の3月10日に、宿内の出火により他の多数の旅籠と共に焼失した。 しかし、11月の和宮の宿泊のために、幕府よりの拝借金を得て、急ぎ再建された。
本陣建物は大名などの宿泊に当てられる「座敷棟」と、本陣の所有者などが使用する「主屋」にわかれており、この建物は「主屋」に当たる。 明治維新まで本陣長井家が居住していた。 明治12年に戸長役場にあてられ、その後和田村役場となり、昭和59年4月まで使用された。
 建物の規模は、間口十二間(約21.6m)、奥行九間(約16.2m)の切妻平入り板葺の建物で、正面外観は中ニ階を幅一間(約1.8m)出桁によって持ち出した出桁造りで、中山道本陣としての特徴をよく示している。
 和宮の宿泊に使用された「座敷棟」と入口にあった「御入門」は明治年間に丸子町の龍願寺、向陽院にそれぞれ移築された。        ≪和田村・長野県・文化庁≫
⑮【本陣】 
⑮【本陣】 
⑯【脇本陣】PM 01:32    本陣に次ぐ各式をそなえ、本陣差し合いの際、一方の大名が休泊所にあてられた。和田宿には翠川氏と羽田氏の二軒があった。   文久元年(1861)3月10日の大火で和田宿内109戸を全焼した際、脇本陣も類焼した。  同年11月、皇女和宮降嫁の際和田宿宿泊のため、昼夜兼業で宿内復旧工事がなされた。 この脇本陣もその時の建築である。 現存の建物は翠川家の御殿部分のみであるが、上段の間、二の間、脇上段、次上段の間のほか風呂場、厠等江戸末期の姿をよく伝えており、上田、小県地方における脇本陣唯一の遺構である。
高札場跡
⑰【本停旅館】PM 01:33
 11月17日に宿泊することになりました。
⑱【高札場跡】PM 01:35
 
和田峠
和田宿2
上田城
和田宿
前の宿場
相互リンク
管理者 : タケ
連絡先 : kaidou@takepoint.net